我が家が秋田移住を決めた理由 後編
「私たちがどうして秋田移住をきめたのか?」その当時の揺れ動く感情とともに書いています。
今回は後編です。
前編を読んでいない方はこちらからどうぞ!
もやもやの始まり
いつからだろう?
私の心の中にモヤモヤが立ち込め始めたのは?
『パースに住むんだ!』と言う夢を達成しなんか燃え尽き症候群になってしまったのかな?
もちろん、毎日健康で仕事もあって家もあって家族も健康で幸せ!なの
でも、何だろう? この満たされない気持ちは?
私は何がしたいんだろう?
育児の傍らいろんなことに手を出し、いろいろ経験してみたが、それをライフワークにしようとは思えなかった。
私は誰なのか?
何のために生まれてきたの?
私のやりたい事って?
私の使命って?
私の幸せって?
なに???
ここ数年ずっと考えてきたこと。
答えを知りたいから、見つけたいから、色んなワークショップに行き、セミナーを受け、コーチングを受け、自分に向き合きあってきた。
その間にワークショップで出会った友人はライフワークを見つけキラキラと輝きだす。
羨ましかった。
いつか私も!!やりたいことを見つけるんだ!!
と悶々とする日々がどれだけ続いただろう?
パースに来て14年目、長い長いトンネルの中にいる気分だった。
まさに迷走中真っただ中だった私。
2017年あたりから私の幸せとは?と「幸せ探し期」に入り
ビジネスコーチングを縁があって受け、自分の感情ととことん向き合い出てきた答えが、
「休みたい」だった。
今まで、「もっとやれる!」「もっと頑張れる!」と自分のおしりをたたいてきたのは
私の心の奥に隠されていた「無力感」と言うことがわかったんです。
「無力感」を認めたくないから、「やりたいことがない私」は価値がないと思い込み
何かやらなきゃ!と焦り、霧の中を全力疾走させてきたということがわかりました。
自分の小さな心の声「疲れたよ。」「休みたいよ。」と言う言葉が聞けたとき、
私は自分の中にある「無力感」を抱きしめることができました。
それからは、自分をねぎらい、自分の時間を積極的に取り、美容院に行ったり、石に絵をかいたり、
ショッピングに行ったり、友達とお茶しに出掛けたり、友達を家によんで手料理をふるまったり、
家事も完璧にしなくていいと自分に許可を出したり、
出来ないことを旦那に頼んだりするようになりました。
自分をねぎらうようになってから、自分の中から聞こえてきたのは
「丁寧に暮らしたい」と言う声でした。
でもそれはとてもとても小さくて、その時の私の耳にはきちんと届いていなかったのです。
私はゆっくり休んだ後にまた、自分の進むべき道を探し出しました。
私の本当にやりたいことってどこにあるんだろう?
と、またさまよい歩き始めたのです。
ひとすじの光
そんな時だったんだよね。
濃い霧の中を行先もわからずグルグルさまよっていると思っていた
私の目の前の景色が旦那の一言で変わった気がしたんだ。
「日本に住んでもいいよ」
住んでもいいよ
いいよ。。。
いいよ。。
いいよ。
この言葉がずっとぐるぐると私の頭の中を回っていた。
旦那から発せられた一言
「日本に住んでもいいよ」
今までなら「は?何言ってんの無理無理!ありえないから!」と笑い飛ばしていたようなセリフなのに。
今回は少し違った。
『その選択もありかも』と思ったのだ。
なにか大きいものに頭をつかまれて「あなたこっちよ!」とぐりっと首をひねられた感じ、
そして全く違った方向を指し示された気がした。
私はずっとパースで私のやるべきことを探していた。
もしも、それがパースにはないものだとしたら?
探している物が日本にあるとしたら?
「ぁ、こっちか。」
暗いトンネルで出口の光が見えた感じ
その光が見えた次の瞬間、私はまた眼をふさがれた。
いや、本当は目を背けたのかもしれない。
やっと見つけた光なのに、眩しすぎて目を背けたのかも
覚悟するまでの葛藤
「日本で暮らす?
日本語を全く話せない旦那を連れて?
オーストラリアで生まれ育った子供達を連れて?
あなた本気で思ってるの?
仕事はどうするの?
この家はどうするの?
何言ってるの?
やっていけると思うの?
いやいやいや!! ないないない!!」
『でも、待って、いいかも、やれない事はない。
家族でならできるかも。
仕事だっていざとなれば私が働ける。
自然豊かな秋田での生活。子供達にだって絶対にいい環境。』
「は? 日本の生活が嫌だから出たんでしょ?
またあの生活に今更戻るの?
狭い人間関係、耐えられるの?」
『確かにあの当時は若かったから、自由にできなかったのは辛かったけど
私はもう13年前の私じゃない。私なりにパースで学んできた。
できると思う。
できる。』
こんなやり取りが私の頭の中でしばらく続いた。
「日本でできるの? 暮らせるの?
今の家は? 仕事は? 苦労して取った永住権は?
パースの暮らしは? パースの友達は?
家も車も売って秋田で暮らす。
日本に行けば0になる?
なじめるの?
今の生活のままで十分幸せじゃない!
今のままの生活が安心で安定でいいでしょ?」
不安要素はいくらでもある
この気持ち、あの時と同じ。
13年前まだパースに来る前に日本で過ごしていた日
「結婚・安定」を取るか「夢」を取るかと決断に悩んでいた日々
あの時と全く同じ。
はらをくくる
全ては私の覚悟次第で事は動く。
「今更無理!」と旦那に言えば「そっか」と旦那はいつも通り引っ込むと思う。
そして、今まで通りのパースの安定した生活に戻るだけだ。
誰も傷つかない。 家も車も仕事も失わない。
また、ここでやることを探し、幸せを探し、子供を育て、生活していけばいい。
それもあり。
でも、私は気が付いてしまった。
「日本に帰る、日本へ家族で移住する」と言う選択肢もあると言う事に。
言葉も文化も慣れ親しんだ自分の国へ帰るのだから、言葉が通じない他の国へ行くよりも安心だが。
不安要素はいくらでもある。数え上げればきりがないほど。
しばらく 決断する勇気が出なかった。
だって、怖いもん!
一歩踏み出す時、新しい事に挑戦する時は やっぱり怖い。
ハチャメチャやってきている私だって怖いんです。
でもね。
ワクワクするチャレンジの前にいつも立ちはだかる「恐怖心」と言う壁
それに押しつぶされそうになる時、打ちのめされそうになる時に
思い出すのはやっぱり13年前の「パースへ行くぞ!」と言う自分が下した決断。
2005年3月、私は一人でパースの国際空港へ降り立った。
親戚も友達も知り合いもいないパースへ。
住む家もなく国際空港からユースホステルへ行き、そこに泊まってそこから大学の説明会へ行った。
そう、私は一人でここへ来た。
色々あったけど、辛い事も悲しい事もあったけど
私はあの時自分が下した「決断」は間違っていなかったと自信を持って言える。
あの決断があったから、旦那にも出会えた子供達にも出会えた
サポートしてくれる沢山の友人にも出会えた。
ありがとう。
私の人生に入ってきてくれて ありがとう
そう、私は一人じゃない。
私は大丈夫。
日本に行っても、私は0じゃない。
家や車も仕事もないかもしれない、
でも 私は0じゃない。
これまでの経験がある。
ここまでやってこれた、乗り越えてきた自信がある。
自分を信じよう。
私は大丈夫。
何があっても家族を守る。
楽しく助け合って行ける。
2,3年前ならきっとできなかった。
2,3年後なら遅すぎる。
行くなら、今。
やっと来た。 この時が来た!
進もう前へ! みんなで行こう。秋田に住もう。
大丈夫、きっと楽しいよ。
大丈夫。
私はこうやって覚悟を決めた。
大丈夫!うまく行くという直感
そして、そう思う私を信じる。
「自分を信じます。」と自分に宣言をした瞬間から、
私たち家族の秋田移住計画は動き始めました。
この決断があったからこそ、私たち家族は今秋田にいます。
自分と向き合い、自分の軸を見つけたからこその決断だと思っています。
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