この街になじめるか?と言う不安について
昨日は北秋田市に移住体験に来ている北米在住の若いカップルとの交流会がありました。
旦那さんは日本人で奥さんは北米出身、現在は2人で北米に住んでいるが、ゆくゆくは日本に移住を考えているらしく、奥さんの従妹が秋田県の男鹿半島に住んでいるので秋田県も移住の候補地にあがっていて、ネットで調べたら「北秋田市の移住体験プログラム」を見つけ今回参加したということでした。
奥さんは高校時代に交換留学で埼玉県と東京に在住経験があり日本語も達者でした。
北米の田舎町出身なので、都会ではなく田舎のほうが落ち着くと話してくれました。
オーストラリアから秋田へ移住し5年目の私達の生活や体験を話すことが今後の彼らの参考になればと北秋田市の移住コーディネーターさんから交流会の話が来ました。
友達や田舎移住を考えている人に聞かれることは
「田舎に移住して周りになじめるのか?よそ者扱いされるんじゃないか?」という不安。
私も移住するまでその不安はありました。
ましてや海外からの移住なのでなおさらです、周りから浮いてしまうんじゃないか?と言う不安を抱いていました。 たぶん、田舎の閉鎖的なイメージがそういう不安を抱かせるんだと思います。
交流会でもこの不安についてお話させてもらいました。
私は阿仁(あに)出身ではありませんが、この街に移住して「この街になじめるかどうか?」の不安が一掃されるのにそう時間はかかりませんでした。
今では「この街に、周りに受け入れてもらっている」と言う実感はあります。
街の人はみんなフレンドリーで、英語がわからなくても旦那に秋田弁で話しかけます。(笑)
オーストラリアの文化や土地の事についても質問して、理解しようとしてくれる姿勢がとてもうれしく感じました。
なぜなんだろう?と自分なりに考えて思ったことは、阿仁町は元鉱山町だったということが関係しているのではないか?という言うことです。
1309年から阿仁鉱山は金山として開発され、その後、銀、銅を産出し、1716年には銅産出日本一となり全国的にも有名となりました。かつては、阿仁の銅は長崎の出島から海外へと輸出されていましたし、幕府御用銅のおよそ半分が阿仁鉱山より産出されていました。
そして、明治12年(1879)にメツゲルら5名のドイツ人技師が来山し鉱山の技術指導にあたり、その時メツゲルのために建てられた住居が今も「異人館」として残されています。
鉱山町として昭和62年(1987)に休山となるまで栄え、発展してきた町ですから、全国から炭鉱員として人が集まってきました。ですから、町に元々住んできた人がよその土地からくる者を受け入れるのに、さほど抵抗はなかったと思われます。
そういうことも関係しているのかなとも思うのです。
交流会にいた、東京からの先輩移住者のAさんの話だと
「海沿いの町よりも山間部の町のほうが厳しい環境で助け合って生きていくためにも、他から来た人をもてなしたり、受け入れたりする文化が根付いている」と言うことでした。
この人口が少ない田舎町なのに、住んでいる人はオーストラリア出身、中国出身、バングラディッシュ出身、アメリカ出身、フィリピン出身者と、とてもインターナショナルなことに驚くと思います。
よそ者だからとのけ者にすることはなく、いろんな行事やお祭り、飲み会などに誘ってくれて、私たちが早く町になじめるように、わからないことは丁寧に教えてくれます。
田舎なので家と家の間も離れていて、プライベートが保たれてとても快適ですよ。
ほかの田舎町は住んだことがないのでわかりませんが、私の住んでいる阿仁はこんな町です。
今回お会いした移住体験者のご夫婦もこの街を気に入って移住してきてくれるといいなと思います。
今ではすっかり阿仁になじみ、快適に移住生活を送っていますが、この移住に至るまでにはいろんなことで悩みました。悩んで自分と向き合ったからこそ「これが私」という軸を見つけられたと思っています。
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